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考える言葉

下山のとき

2013年02月04日

 前回も少し触れたが、五木寛之さん(1932年福岡県生まれ)の話の続き。

 

 思うに、五木さんの本はけっこう読んでいる。愛読者を名乗るほどではないが・・・。作家には時代を先読みする感性の強い人が多いが、氏は時代の本質を肌で感じて生きているような人で、その表現にハッとさせられる。

 

 氏によると、「私たちはいま、新しい不機嫌な時代と向き合っている。しかし、そこで誰に苛立ちをぶつけるわけにもいかないという、屈折した状況である」という。明治時代には、暗愁という言葉が流行ったそうで、その言葉に鬱屈した感情を託したそうだ。

 

 鬱病が激増しているという。心の病といえば五木寛之なのか、最近、縁もゆかりもないところ(銀行・証券、IT産業、医学会、教育など・・・)からの講演依頼が多いそうだ。元来、無気力な人は鬱にならないそうで、「どこをめざして、どうがんばるか」を見定めることができずに、悩んでいる・・・・・。

 

 氏がいう、「いまや時代は"下山のとき"である」という時代認識は一考に値する。

「下」のつく表現(下品、下流、下等、下賤など)は、どこかマイナスのイメージが伴う。登山に対して下山というプロセスは、軽視され、ほとんど無視されている。しかし、登山と下山は対概念であるというのが、氏の言い分・・・。

 

 「登って、下りる。両方とも登山であり、山は下りてこそ、次の山頂をめざすことができる」という、実りある"下山"を考えようという提案だ。

 

 例えば、登るときは必死で、下界を振り返る余裕もない。一点に集中している。だが、下山の途中では様々な風景(遠くの海、町の遠景、岩陰の花)を眺める心の余裕にも気づかされる。つまり、集中ではなく、多様性の妙・・・。

 

 多様性の妙、すなわちその価値に気づくと、二分法の考えが取れなくなる。問題は白か、黒かではない。両方とも大事なのである。目先だけの利益ではなく、長い目で考えなければならない。

 

 いまや"下山のとき"という氏の指摘は、経営にとっても示唆深いと考える。今の時代が「"登山のとき"(成長期・集中)」から「"下山のとき"(成熟期・多様性)」へシフトしたと考えるだけでも、新しい物事の判断軸(価値観)を養う必要性を感じるであろう。

 

 すでに、山頂へ登りつめたのに、その延長線上に頂をみようとしている。だから、未来が描けない。"下山のとき"に身を置いてこそ、次の山頂が見えてくる。

 

 "下山のとき"とは、「仮説~実践~検証」という経営サイクルでいうと、検証のときをいうのであろう。

 

 がむしゃらに動いたら、静かに検証をする。だから、次の一手が見えてくる。

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