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考える言葉

自覚

2015年09月24日

 2000年からスタートしたNN構想の会、やり続けているうちに16年になる。会を重ねるごとに、次のような質問を受ける機会が増えるようになった。
 「どんな思いからNNの活動をやり続けているのか?その動機は何か?」
 質問する側もいろいろな意図があってのことだと思うが、質問を受ける小生にとっても一言で表現できるほど単純ではない。やり始めた初期の段階と今とでは、やはり動機も思いのレベルも相当違う・・・。
 自分のやりたいこと、好きな仕事に専念しているうちに、それに関連する様々な出逢いが生じ、一つの場が生まれる。その場に感謝し、場のレベル向上のために頑張っているうちに、いつの間にか周囲の人から引き立てられ、その立場を演じている自分に気づかされる。どちらかというと、強烈な意図があってというよりも、自然の流れの中で、その役割を演じているうちにその気になっている自分がいるのだ。
 それにしても何故、やり続けているのか・・・?それは、"自覚"であろう。"自覚"とは、読んで字の如し。自らを悟(=覚)るということだ。つまり、「この役割は、自分が演じなくて誰が演じるというのか!」という、自分自身の問題意識なのである。
 「やり続けている動機は何か?」という問いの答えは、一言でいうと「"自覚"でしょうね!」ということになる。だが、"自覚"に至るまでのプロセスは上記の通りである。"自覚"に至ると、思いや動機のレベルが明らかに変わる。使命観や責任観ともいえるものだろう。
 もちろん、やりたいこと、好きなことをしているという意味においては何ら変わりはないのだが、この場に関わっていてくれる人たちがどのような成果を得ているのか、またその場が環境に及ぼす影響力は如何ほどのものなのだろうか等々、自分を超えた全体の様子が気になってくるのである。恐らく、それが"自覚"なのだと思う。
 「"自覚"とは、その人のパワーの源泉である」ともいえる。日蓮上人は、自らを上行菩薩の生まれ変わりであると"自覚"し、「法華経の行者、日蓮」という使命観に目覚めたという。そして、その"自覚"をもって自らの生涯を通して演じきったのである。
 ずい分以前に読んだ書籍の中に、『「原因」と「結果」の法則』(ジェームス・アレン著)という本がある。その本の一節に、「私たちは、自分の考えているとおりの人生を生きている」とある。また、「人間は思いの主人であり、人格の製作者であり、環境と運命の設計者である」とある。
 どんな"自覚"を持つのかによって、私たちは自らの環境を呼び寄せているである。そして、自分の思う通りの人生を演じている。自作自演、それが人生なのである。

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